醤油プリン丼

そもそもプリンはあまり好きではない

ねこの夢

※進行中の話なので少なくとも現在は責任感を欠く描写がある

 

 ひと月ほど前から、近所に猫が二匹出没する。

 

 一匹は白黒のハチワレで、もう一匹は小さな三毛猫。血縁関係があるのかはわからないが、ほとんど二匹一緒にいる。

 最初のうちはまだしも、ここ最近急激に冬が深まったから猫は冬を越せるのだろうかと家族や近所の人たちが心配しはじめた。他の家のことは知らないがうちなんかは家族のラインで見かけるたびに猫の動画が送られてきていた。

 つい数日前にはとうとう母が猫の餌を買ってきた。雨の降る前の昼頃には軒先にやってきた猫に妹が餌をやっていた。猫はますます家に寄りつくようになる。机には猫の餌が増えていた。

 とはいえおそらく野良で数ヶ月暮らしていたからか、急に家には上がってくれない。大窓から数歩のところまでは室内に入り込んでも警戒されているのか、二匹とも上り込むことは少なく、戸を閉めようとすると逃げ出すらしい。

 

 わたしはといえば、ここまでの猫を取り巻く情だのにほとんど関与していない。時折リビングに寄った時に皆が猫に熱心になっているのを横目に茶を飲んだりしていた。理由としては単純で、動物が苦手だからだ。昔ハムスターが家にいた時もほとんど関与せずに過ごしていた。

 だというのに、今朝、猫と二人きりになっていた。

 昨晩から雨が降っていたというのに全く姿を消していた猫は、ハチワレだけが朝方に窓辺に現れた。学校やら仕事やらで皆が出かける直前の時間帯であった。そこで、一番家を出るのが遅いわたしに声がかかる。曰く、「猫が二匹とも上がってくるか、二匹ともいなければ窓を閉めてくれ。一匹だけなら開けたまま外出してくれ」とのことだった。

 カーテンを少しめくって、大窓からすぐのところにいた猫を見下ろす。猫はこちらを見て小さく鳴いた。

 窓が開かれている朝方のリビングは寒くて、そして大変眠くて炬燵に潜り込んだ。わたしは自分に大変甘いので、外出の目的は己の根気次第の卒論だけだから完全に少々の二度寝を貪る気である。

 

 猫の夢を見た。夢の中では小さな猫も家に上がり込んでいて、わたしは慌てて餌を皿に出していた。水を温めながら自分の茶の準備をして、窓をそっと閉めることに成功する。家族が帰ってきたから出かけようと立ち上がった。

 

 アラームが鳴る。一応で設定してあった時間ではなく既にスヌーズだった。起き上がる。喉が渇いたし朝食も食べなければと台所に向かう前、窓を見たら猫は一匹もいなかった。閉じるために窓をスライドさせると、夢の中の感触よりも冷たくて軋んでいた。自分のお茶と温めた朝食だけを用意して食べている途中で父が帰ってくる。そこだけは正夢になるのか、と思いながら出かける準備をした。

 

 和歌だかで、夢に出てくる人は自分を想っているという解釈だったという解説を読んだことがある。わたしは夢に出たことがきっかけで出たものに興味をもつことが多い。ちょっと調べていたゲームのキャラクターが夢に出演したからゲームをプレイするだとか。だから、自分が出てきた人のことを想っているものだというイメージがある。

 夢に出てきたねこはわたしのことを想っているだろうか。構ってくる人がいる家で急に現れては消える人間のことを。それともやはりねこのことをわたしが想っているのだろうか。軒先に急に現れては消える猫二匹のことを。

 

 わからないけれど、見ているうちに情が湧いてしまって気まずくはある。餌をあげた以上どうあれ責任は取るべきなのではないだろうか、と傍観者なりに思う。なので、夜にでもわたしが帰ったときに家に猫がいた方が寝覚めはよいだろう。いたとしてもわたしとねこの関係が今朝から大きく変わるわけではないけど。

エモーショナル早死に

 

 

 メロスは絶望していた。

 

 起きたら行くはずだった舞台の開演時間を一時間も過ぎていた。これがセリヌンティウスの処刑時間だったらとっくに死んでいる。

 

 頭が真っ白になった。もう無理では? と思い、行くのをやめようかと思った。それから9700円というチケット代とニートである現状を鑑み、何時間の舞台なのかを調べ、結果として家を飛び出した。

 休日出勤が急に入った人みたいな服装で劇場に急ぎ、1時間弱だけ舞台を見た。舞台は良かった。主演(推しグループのメンバー)、めっちゃ鼻が高くて脚が長くて顔が綺麗だな……。と思った。ドラマによく出ている分舞台向きのイメージがなかったが、舞台にも映えるな〜〜。最初から観たかったな……。原作を履修していたためどういう場面かなどはギリわかったが、今後オリジナルの舞台でこれやったら終わりだな……。いや今回も終わってるが……。

 何を言おうとしても自分の愚かさに帰結していく。情けなさすぎて涙が出る。書いている今も思い出すと気が落ちてくる。

 オタ垢で半分見ていないせいでどこか的を得ない観劇ツイートをしながら三駅分歩いた。このまま帰ったら虚無に呑まれそうだったから所在なく歩き続けた。

 わたしだって落ち着きを得た昼夜逆転のない生活がしたい。

 落ち着きを得たい。

 

 落ち着きを……。

 

 というわけで落ち着くためにシーシャを吸いに行った。

 落ち着きから連想したのは嘘ではないが、往復の移動時間よりも何かをした時間の方が長くなりたかったのもあった。

 うっすら暗くなった空と、見合わぬくらい眩しい建物たちの間を彷徨きながら目的地を探す。客引きはやめましょうという看板とアナウンスを尻目に客引きをする人たちを通り抜けて、雑居ビルに入った。めちゃくちゃ狭い階段と別の階の店の前に集まっている人たちにビビりつつも階段を昇り、目当ての店に入った。

 コンクリート打ちっぱなしの内装の店で立ちすくんでいると沢山ピアスを付けている店員さんに案内をされる。ガチでヤバいコミュ障だった数年前よりはマシになったはずだが、未だに個人経営とか小さめの店に入った時の挙動不審さはどうにかしたいなと思う。

 片側にカップルの座っているL字のソファに案内されて説明を受ける。「なんか吸いやすいフレーバーとかあるんすか?(裏返った声)」と聞けば「好きなフルーツとかだといいんじゃないですかね」と返されたためとりあえずピーチにした。好きな果物と言われると咄嗟に何も出てこなかったためである。好きな果物って……何だ……?レモン……はレモンサワーが好きなだけだしな……。

 

 しばし待てば、サブカルたちが画像を載せている通りのシーシャが運ばれてきた。うおー。なんとなくワクワクしながら教わった吸い方を実践してみて、めっちゃ濃い煙を出した。店員さんが「何回かやってれば慣れると思います」と言ったのでやっぱ何かしらが違うんだなと思う。

 落ち着かね〜〜。とりあえず何度か吸って、最初とそう変わらない煙を吐いてそう思った。チルれるって聞いたんですが。視界に入るカップルやカップルやカップルがリラックスしている対比のように落ち着かなさを募らせつつ、道中で買ってきた檸檬クラフト青(近所では売っていなかった限定味)を開けた。ノーマルの黄色より爽やかで美味しかった。

 30分ほど経って慣れてきたのか、丁度良い塩梅の加減がわかってきた。自分の感覚よりも躊躇わずすぐ息を吐き出すこととかキャパを超えて吸いすぎないこととか。当たり前かもしれないけど非喫煙者シーシャ未経験なので自然な感じを会得出来ていなかった。これが自然なのかは謎だが。こうなると濃すぎてむせていたからわからなかった煙の甘みを感じられる。深呼吸慣れしてなかったためうっすら酸欠もあったのかもしれない。フルートが吹けなくて体験入部中にめちゃくちゃ酸欠になった中学一年生の頃を思い出した。

 臭すぎない煙たさとそこから香るほのかな甘さ、あとニコチンのせいなのか酸欠のせいなのかわからない落ち着きとアルコールまで入って、かなりチルを“理解”った気がする。脳がうっすら溶けている〜〜〜〜。わ〜〜〜〜。わたしは酒飲むとわりとテンションが上がりはしゃぎ失言からゲロから飛び出るタイプですが、この時の楽しさはダウナー寄りというかかなり穏やかな気持ちだった。一缶で酔いが回ってはいたけど、これ以上飲んでいたら落ち着いてたのか浮かれていたのかはちょっと気になるところだった。ソファにもたれ卯月コウのキモい動画をフォロワーに教えていたことは、今思い返すと落ち着いてもこんななのかよというところはあるが。

 

 最近の若者はタバコを吸わないという話を思い出した。わたしが見たその文章では「それでも今わざわざ吸うやつはエモさが理由」とかって書いていたような気がする。現代には落ち着く方法なんて溢れるほどあって、ぼんやりずっと続く快楽だってそれこそソシャゲなんかで代用できる。お金がないことも理由の一つかもしれないし、害が騒ぎ立てられて今のアニメやドラマでは喫煙者はほとんどいない。

 わたしが煙草を吸わないのは父が家の壁の色が変わるほど吸っているマイセンがめちゃくちゃ煙くてマイナスイメージがあるからだ。そんなわたしがタバコと変わりないかもしれないシーシャを吸ってみたかったのはやっぱりちょっとエモさを感じていたからだ。だから百害ばかりが目立つ中での今、タバコを吸い始める人たちの一利はエモさなのかなと思った。昔の洋画だの煙たい昔ながらの喫茶店なんかが理由で寿命を縮める若者という構図自体がどこか倒錯的で、自分ですらも物語の一部分のように感じられるのかもしれない。

 まあわたしは常用する気はないんだけど。家の煙たさと勝手に肺を黒くされている不快さがカッコよさに勝るので。ただ、こうやって喫煙者(という呼び方が正しいのかは知らない)が集まる場で、中毒にならない程度に、いつかまた他の味を試してみるのは悪くないかもしれない。設けられた制限時間近く、味の薄まってきたシーシャを吹きながらそんなことを考えていた。立ち上がって、会計を済ます。狭い階段で踏み外しかけて別フロアに入ろうとしていた人たちから二度見され自分でもめちゃくちゃ酔ってるんじゃないかと危惧したが、すっかり暗くなった外の夜風に吹かれて歩いているうちに酔いは醒めていった。

 入る前とは別のコンビニで檸檬クラフトの青と黄を買って、駅前で警官が来るような騒ぎを見て少し面白くなりながら(ヤバい人を見ると笑ってしまう癖がある)、帰路についた。明日からは落ち着きを持って生きていこう……。泣きたいような情けなさをチルで誤魔化して、なんとか前を向いた。

 

 ちなみに一週間後の今日ですが18時に起きて3時にこれを書いています。もうおしまいだ…………。

死にたさを消費しながら生きている 死にたくないので 死にたくないので

あ〜〜〜〜〜〜〜〜。

就活したくね〜〜〜〜〜〜〜〜。

 

みなさんお元気ですか。

わたしは1週間前に面接で10人中99人が不合格にすること請け合いの醜態を晒してからというものじわじわ気力が削げてとうとう何もしないまま貴重な土日を終えました。いやニートだから土日もクソもないんだけど。

 

就活、つらくないか……。

「何もストレートに正社員じゃなくても」と言う人はいるしそれが間違っていないことも理解しているのだけど、どうにもちゃんとしなければという気持ちが拭えない。ちゃんとしてないくせにか……?

わたしは高校入試を後期受験で合格して、大学受験をセンター利用後期で3月末に合格した身なのですが(隙有自分語)、どうにも「失敗し損ねた」という感覚がずっとある。後述しますが、このルートに乗れていないことが失敗なわけではなく、わたしのわたしへ対する評価の話です。

フォールガイズで残り数人で定員でゴール間近、一か八かでダイブしてみたら最後の1人でゴールできました。みたいなことを数年単位のステージ毎にやっているような、こんなギリギリで生き残ってきた奴がクラウンを取れるわけがないだろうという感覚がついて回っている。

何が厄介って、失敗し損ねているままだから自分の感覚としては「まだ失敗していないけど、これから失敗することはほぼ確実」という状態でずっも生きていることだ。

わたしのようなクズ、仮に就活がどうにかなってもその先が万全の人生なわけがないし、就活が挫折の時かもしれない。いつ致命的なミスをするのかわからない。次も何とかなるかもと言う根拠のない万能感と次こそは失敗するかもと言う焦燥感をもって薄氷、いやhexagonの一番下の層に立っている心地がある。やったことないフォールガイズどんだけ擦るんだ。

 

フォールガイズが嫌なら別のゲームを遊ぶ選択肢があることを本当は知っている。たまごっちのプチプチおみせっちとか、ねこあつめが選べることを知っていて見ないフリをしている。わたしの持っている成功とか失敗という尺度自体がたぶん、おかしいことも気付いていた。だってわたしの尺度と違う生き方をしている人だって充実していている。苦労している。わたしの尺度内と外で大きく違うところなんて本当はない。

知っているけど、ずっとプレイしているフォールガイズをやり続けることを今の今まで続けている。これは覚悟じゃなくて惰性だった。ただの怠惰だった。ここで上手くいくわけないと思いながら、別の尺度を選ぶ度胸もないのがわたしだった。

 

うだうだと千字ほど開陳しては書く前の地点から一歩も進んでいないことを確認して死にたい気持ちを抱えています。どうせ老衰なんかで死なないだろうと思いながら今すぐ死ぬ決断も出来ないからこうやって死にたさを綴ることで一日を消費している。就活の話と同様に。いつだって何だってわたしは一歩も進めない話だけしかできない。情けないけど、みっともないけど、どの決断を迫られているわたしもこれだけは同じなんだろうなと思う。

 

とりあえず、少し先、来年にはゲームで遊ぶという選択肢があるわたしであればいいな。スプラ3やりてえよ……。

近況報告を書く

まーーーじで放置していた。こんなしょうもない思考垂れ流し機構の役目を果たすようなブログを書くためだけに入れたはてなブログのアプリはスマートフォンの左端で居心地が悪そうにしている。ごめんね。

 

一個前の記事で自己承認欲求とコンプレックスを撒き散らしていたわたしへ。もはやこの記憶すら今のわたしにとってはおぼろげですがお元気ですか。学年から2を引いて肩書きの変わったわたしは自己肯定感を異様に高めた結果他人ウケに中指を立てながら生きています。あなたの置かれている環境的には他人からの承認を得なければ死ぬ時期だもんな。そこ抜けたらどうでもよくなります。相変わらず友達はいません。

 

もうちょっと皆様向けの文章を書くとする。最近継続しているブームに短歌がある。「短歌をやっている」という文章に耳馴染みがあまりないようで口頭で言うと絶対聞き返される言葉ナンバーワンである。57577です。31字。季語無いやつね。

発端は大学でサークルを探している際に詩作する会があることを知ったのがきっかけであった。中高と大人数少人数で音楽をやりついでに漫画を描きプログラムを打ち文章を書いてきたわたしはなんとなく、軽い気持ちで「そういえば短歌の作り方は知らないな」の気持ちで入会。

ちなみにこのサークルであるが、わたしが目下のところここで得たものは正岡子規の偉そうな講釈の本を読んだくらい。それは何もしていないと同義だ。悪口である。紛うことなく悪口である。文化祭を経てわたしの作品は世に出ていない。このあたりは長々と連ねると憎しみが深くなってしまうのでサークルやめたらまた書きます。

 

作り方やり方感性の極め方も全くわからぬまま個人で続け、会誌にはどうあがいても載せないと自己判断した信仰やら半分二次創作やら、あと微妙に気に入らない31字をしたためてはメモ帳に貯め続けとうとう30首を達成してしまったわたしは思った。「このままではわたしの作品は日の目を見ないのではないか」と。せっかく新しいことを始めたのだから新入生ライブしかり、文化祭号しかり、発表はしたいじゃないか。あと「ぶっちゃけこれ一人でできるのでは?」と。

そんなときに便利なのがツイッターである。大抵のことはSNSでできる。すごい。愛している。早速わたしは短歌用のアカウントを作り気の向くまま投げ始めた。

現在2ヶ月半ほど続けているが多分日割りにすれば1日一首のペースほどになるだろう。継続が苦手なわたしにしてはよくやっている。

リアルのアカウントでやっても悪くはなかったのだが、恋人いらねーー!!!一人最高!!!!というわたしの書く恋だのがテーマだったり、アイドルへ向けた愛をつらつらと語ったりするものを顔も本名も割れている状態で垂れ流しにするのは恥ずかしかった。という理由で壁に打ち続けているがやってること自体は140字とほとんど変わりのない感性の言い換えなのでこっそり聞いてくれたらこっそり教えます。そんな感じの趣味です。

 

以上、新生活の報告にしてはずいぶん遅い文章でした。こんなことをしている場合でないのに文字を書く癖は変わらず、明日の1限(※6時半には起床7時半出発)が必修のテストです。詰んだな……。

来世のウニ、今世のガリ

「来世はウニになりたい」

よく呟く言葉だ。今世への諦観と来世への若干の図々しさを載せた一言なので気に入っている。先に言っておくけど今世とか来世とか頻繁に出てくるけど無宗教です。ちなみになりたい理由は「外見が尖っている」かつ「中身に価値がある」こと。

 

上記のようなことを言うとウニが好きなのか尋ねられがちだが、好きか嫌いかで言ったら好き程度だ。あったら食べるけれど、わたしが好物としてウニを挙げることはない。そもそも好きが高じてもネギトロや牛タンや抹茶パフェにはなりたくはない。

 

ではなぜウニになりたいか。これは前述した通り「中身に価値がある」からだ。

触るもの皆傷つけるような見目の強さにも憧れはある。形から入るタイプなのでわかりやすくロックなあの尖り方はカッコいいと思う。物理的に真似はしないけれど。
でもやっぱりなりたい理由のうちどちらがメインかと問われれば価値のある中身の方に傾いている。

多分、ウニと聞いたら寿司あたりの高価な食品が頭に浮かぶのではないだろうか。ウニというものは個人の好き嫌いに関わらず「高い」「希少」「良い」といったワードがセットで連想されがちなのではないかと思う。

わたしはそれになりたいのだ。

 

わたしは広く浅く、認められたい。

わたしはウニが羨ましい。だってこんなにも全国に価値があることが知られている。値段の割に美味しくなかったとしても、高値がつけられている。回転寿司の冷凍ウニには「ちゃんとした値段だったらおいしいのだろう」という評価が下される。「ウニ」というブランドに無条件に貼られるレッテルと価値と許容。わたしもそれになりたかった。

もはやウニに嫉妬している。

 

それでもわたしは今世ではウニではない。きっとこの人生がウニとして認められることはないだろう。わたしの一生はせいぜいガリ、良くても玉子(玉子巻きの方じゃなくて単体で置かれているやつ)止まりだろう。

 

今後もおそらく「来世はウニになりたい」と呟くことはやめられない。それがわたしなりの身の守り方と弁えていますアピールでもあるからだ。ウニになることも多分できない。ウニになれる人は大抵こんなところでウニになりたいなんて思っていないものだ。

だから目下の目標としては自分がガリであることと折り合いをつけることだろう。ガリだっていいじゃないかと思えるようになりたい。ガリも食べてみたら美味しい。そうやって好かれることに満足できるようになったら、寿司桶の隅で居心地が悪くなることもないのだろう。